自宅で暮らしたいという希望を叶えることの難しさ



一人暮らししていた90歳の叔母が
介護付きホームに入居することになり


色々思うところがありましたので備忘録


最近は足腰が弱くなり買い物などを
弟であるわたしの父に頼んでいた叔母


先日お風呂に入っていて、さあ出ようと思ったら
立ち上がることが出来ない


頑張ってもどうしようもないのでとりあえず溺れないように
浴槽のお湯を抜いてタオルをかぶり
そのままじっとしていたとか(頭はわりとしっかりしています)


翌日の11時ごろに50年以上付き合いのあるご近所さんが
お惣菜を届けに行きチャイムを鳴らすが
絶対にいるはずなのに応答がないと


異変を感じて父に連絡をくれたのです(弟は86歳^^;)


合い鍵を持つ父とご近所さんとで家に入り
リビングに行ってもいないので


呼びかけたら声がするのはお風呂場で
(蚊の鳴くような声がしたと)


見つけたふたりはびっくり(そりゃそうだ)


なんとか二人で力を振り絞って浴槽から引っ張り上げ
パンツを履かせその辺にあったパジャマを着せて


その後すぐにわたしに電話が来ました


「どうしたらいい?」「救急車呼んで」


父はそうか!と行って救急車を呼び


15時間を浴槽内で裸のまま過ごした叔母は
救急搬送されました


幸いなことに夏場で低体温になることもなく
無理に立ち上がらなかったので転倒することもなく無傷


念の為検査したところ栄養状態がよろしくなく
しばらく入院となりました


過去には寝ていたベッドから起きる際に転落し
仰向けのまま携帯を探して110番に通報したり


大好きなあんぱんを買いに行って転倒し
やはり救急搬送^^;


その都度
父やわたしに連絡が来て対応していましたが


もう独りで暮らすのは無理であろう
という周囲の判断によりホーム入居となったのです


元々叔母には担当のケアマネジャーさんがおり
キーパーソンは叔母の亡くなった夫の兄弟側の甥っ子


わたしとは親戚といえばそうですが会ったこともなく
実生活のフォローは実弟である父とわたしでしたが


最終判断は甥っ子さんにお任せしました


彼は叔母が住む市の市役所勤務なので
入居ホームを探すネットワークもあり
スムーズに決まりました



退院後一旦自宅に戻り身の回りの物だけ持って
長年暮らした大きな家からワンルームの
有料老人ホームへ引っ越し


決して喜んで引っ越すわけではなく
自分の体力の限界を認め
仕方ないねと言う叔母には「顔出すからね」
と言うことしか出来ず


高齢者を受け入れる側で働き「家に帰りたいんだよ」
と言う人たちに
「頑張ってリハビリしてお家に帰ろうね」
と言っている自分


叔母が自宅で暮らす望みを叶えてあげられない
現実とのギャップ


なんともいえない感情が湧くのです


ここにきて考えるのは今はまだ元気な父と
老老介護中のちょい認知の母の今後


姉妹での金銭援助とたまの差し入れご用聞き


この程度で済んでいるのは恵まれている方とも思う


これまで何度か同居も考えたものの
自由気ままに生活している両親を見ると


体に不自由がなければ見守ろうとの判断で
現在に至ります


子育て終わってホッとするのも束の間
親の健康、介護問題をあらためて
考えさせられた


叔母のお話でした

夢を実現させる力








高校生の頃諦めた夢は看護師になることでした



しばらく忘れていたその思いを実現しようとしたのは40歳を過ぎてから
今、この仕事することができているのは当時の決断と諦めない気持ち




もし何か決断することを躊躇している人がいるなら伝えたい
年齢なんて気にせずにチャレンジして欲しい
ただそれだけ



昔々のお話し
就職一択で選択肢なしの高校3年生当時
親の言うことが絶対だったあの頃^^;


今はそんな家庭も少ないかと思いますが
当時親に逆らうなんてとんでもない我が家でした


数年会社員をした後に結婚退職
バブル当時の王道で専業主婦となりました


子育てに追われいつしか夢は忘れ去り
日々を暮らすので精一杯の日々を過ごすこと10年


夫の給料でやりくりして家事と育児をこなす自分
がんぱっていたけど途中で疲れてしまったわたし


まずは、子供が学校に行っている時間だけ働こう
それなら誰にも文句は言われまい


そう思って選んだのが某ハンバーガーショップ


10時から14時の4時間(休憩なし)時給750円


週に3日ほど働いて最初にもらった金額は4万円程


とても嬉しかったのを覚えています


社会とのつながり、わたしの居場所ができて
お金ももらえるなんて最高


子育てがもう少し落ち着いたら自分がやりたい仕事を探そう
と思いながら日々を過ごしていました


そして冒頭の看護師になりたかったわたしを思い出すのです


きっかけは妹の友人が働きながら看護学校に通っている


という話を聞いたことからでした


友人は病院でクラーク(病院事務)をしていた時に、そこで働く
看護師さんと親しくなり、働きながら准看護師になることができると知り
病院に所属しながら学校に通っているとの事


わたしはすぐにインターネットで准看護師学校を調べ
地元の医師会が運営する准看護師養成所に電話をしました
募集要項を取り寄せその年に願書を出しました


自分でもびっくりするぐらいの行動力です
しかし受験は失敗に終わりました
面接で聞かれた「実習は絶対に休めないけれど、お子さんは大丈夫?」
の問いに即答できなかった事 
私の覚悟が不足しているのを見抜かれてしまっていました


満を持して再度受験したのが40歳を過ぎてからのことだったのです
学費も貯めて、子供も留守番できるくらいには大きくなり
もう大丈夫 と思って挑みました


受験した人数は100人ほどで合格は40人です
その中で40代以上は数人


わたしは42歳で学生になりました

親ガチャとか毒親とか





自分が子育てを終えてみて
改めて自分の育った環境を振り返ると


ま、親ガチャはハズレで毒親だったよね と思う


両親は中卒で、卒業と同時に集団就職
適齢期にお見合いで結婚


学歴とは無縁の2人
知らないくせに「大学なんて行っても無駄」
が口癖でした


だから当然わたしに進学の選択肢はなかったのですが
当時高校生のわたしは、勉強が得意ではなかったから


就職オッケー(^^)v  って言っていたけど


本当は専門学校に行きたかったのね
夢もあったけど
言い出すことすら出来なかった


これは幼い時からずっと
本当の気持ちを言えなかったったから


第一子 長女あるあるではないかと思う
お姉ちゃんと言われて育ち 
いつの間にか我慢するのがあたりまえの日々


無言のお姉ちゃん圧力


高校生になったばかりの頃
お小遣いがもらえなくてアルバイトしたいと言ったら
反対され、仕方ないから
内緒で働いて自分の欲しいものを買ったり
友達との付き合いをしていたけど


ある時わたしのいない間に母が机を物色
(これ、ありえないけど我が家では普通でした)


プライバシーのへったくれもない家です
昔からで本当に家出も自殺も考えたくらい^^;


隠しておいた通帳が見つかってバイトしていたのがバレました
なぜ、バイトがしたかったのかも聞かれることなく
ひたすら怒られ、殴られ、バイトは強制退職(めちゃ怖かった)
そして何故か通帳は取り上げられた(お金返してー)


その後何度も何度も懇願して、バイトの許可がおり
別の場所で働き高校生活で必要なお金は自己調達できました



妹は、わたしのすったもんだを見ているから
上手に親と接しておりすんなりバイトしてたっけ^^;



幼い頃から色々と我慢してきたから
親に甘えることが出来なかったわたしです



本当は欲しいのに、本当は行きたいのに、本当は‥‥‥


自営業の父と専業主婦の母
家計に余裕などなかったのか
夕飯のおかずは基本一品で遠慮しながら食べる
そんな生活でした
おかげさまで わたしは少食です^^;


友達のおうちはボーナスってのがあるらしい


夏休みには祖父母の家以外の場所に旅行するんだって


そんな生活レベルの差に気がついてからは
一層自分の気持ちを表に出すことは無くなった


うちはお金がない家なんだと知ったから


なのにバイトだめって意味不明ですがね



親が白といえば黒も白になる 絶対的な抑圧の中で育ちました
外泊も、遠くに遊びに行くのもダメ、ダメ、ダメ


夜、親が寝てから団地のベランダから家を出て、
早朝にベランダから帰宅したなんて武勇伝をもっているわたしです
一階とはいえ、近所の誰かは目撃していたかもしれません
それでも友達と夜中のファミレスでおしゃべりしたのはいい思い出



それにしても
今思えばよく不良にならなかったもんだと思います




だから就職は、自由になるための手段だったのです
早く実家を出よう そう思っていましたが
就職しても高卒事務職の薄給では一人暮らしもできず


そうなると結婚しかない
安易ですが^^;ほんとにそう思っていました
で、早めに結婚しちゃいました


高校卒業まで育ててもらったので感謝はしていますが
両親はわたしにとって反面教師です


わたしは両親の様にはなりたくないと思って生きてきました
(こんなこと口が裂けても親には言えませんが^^;)



今の世の中ならインターネットで調べて
奨学金を借りて学校に行ったり


寮のある会社に入って家を出たり


選択することができるのでしょうけれど


親の価値観が絶対 
そんな家庭で育ったわたしには選択することすら
許されなかった



まあ数十年前のお話です


そこからコツコツ地味に努力して
今は専門職として働けているわたしの過去のおはし



うちの子どもたちにはいずれ
親ガチャ外れか当たりか聞いてみようと思います